「現在の築地市場周辺は、海を埋め立てて作った人工岸であることは有名です。江戸時代中期の地図からは、すでに直線軸で整然と区画整備された区割や海岸線を確認することができ、今日の街並みの原型を感じることができます。
とはいえ、当時は江戸湾を望む静かな入り江だったようです。陸奥白河藩主であり老中職にあった松平定信は老後、現在の魚市場がある区画を将軍より与えられた際、海を望む風光明媚な景色を大変気に入って、ここに松平家の下屋敷「浴恩園」を建造し余生を送ったと言われています。
そんな平穏な海の町が軍事拠点へ変貌していったきっかけ、それは日本の歴史をも変えることになった黒船の来航でした。江戸末期の1853年(嘉永6年)、横須賀にペリーの黒船艦隊が到着すると、幕府は西洋式海軍の必要性に迫られ、急速に軍事力増強のための施策が計られるようになります。
1855年(安政2年)、まずは長崎に「海軍伝習所」が完成します。ところが、江戸からは遠くて不便だったため、海に面した築地の地に2年後の1857年(安政4年)、軍艦の運転講習や航海術を学ぶための「軍艦教授所」が創設されました。長崎の「海軍伝習所」の第1期生であり、後に初代海軍卿となる勝海舟は1859年、この築地の「軍艦操練所」で教授方頭取を務めており、その際に一連の施設名を「軍艦操練所」と改称しています。
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