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築地市場周辺に残る、日本海軍発祥の史跡

【11年6月16日】
 

 「現在の築地市場周辺は、海を埋め立てて作った人工岸であることは有名です。江戸時代中期の地図からは、すでに直線軸で整然と区画整備された区割や海岸線を確認することができ、今日の街並みの原型を感じることができます。

とはいえ、当時は江戸湾を望む静かな入り江だったようです。陸奥白河藩主であり老中職にあった松平定信は老後、現在の魚市場がある区画を将軍より与えられた際、海を望む風光明媚な景色を大変気に入って、ここに松平家の下屋敷「浴恩園」を建造し余生を送ったと言われています。
 
そんな平穏な海の町が軍事拠点へ変貌していったきっかけ、それは日本の歴史をも変えることになった黒船の来航でした。江戸末期の1853年(嘉永6年)、横須賀にペリーの黒船艦隊が到着すると、幕府は西洋式海軍の必要性に迫られ、急速に軍事力増強のための施策が計られるようになります。

1855年(安政2年)、まずは長崎に「海軍伝習所」が完成します。ところが、江戸からは遠くて不便だったため、海に面した築地の地に2年後の1857年(安政4年)、軍艦の運転講習や航海術を学ぶための「軍艦教授所」が創設されました。長崎の「海軍伝習所」の第1期生であり、後に初代海軍卿となる勝海舟は1859年、この築地の「軍艦操練所」で教授方頭取を務めており、その際に一連の施設名を「軍艦操練所」と改称しています。


水神社手前にある日本海軍発祥の地
「旗山」の石碑

 
 

「軍艦操練所」は1864年(元治元年)、火災により焼失・仮移転したのち、1866年(慶応2年)には名称を「海軍所」に変更。同年の11月には再び類焼して、現在の浜離宮恩賜庭園がある場所に移ります。「海軍所」跡地には日本最初の西洋式ホテル「築地ホテル館」が出来ましたが、経営難のため僅か5年で閉鎖。その後、中央卸売市場の立体駐車場が建設されました。「軍艦操練所」の痕跡は現在の築地6丁目20番地、晴海通りの道沿いに立看板を見つけることができます。

 
 


晴海通り沿いの
「海軍操練所跡」を記す立て看板

 明治維新後、かつての大名屋敷や講武所と呼ばれた跡地は政府に没収され、主に海軍省用地として使用され始めます。海軍兵学校や海軍病院などが開設され、築地の海辺の風景は一変します。1872年(明治5年)、旧尾張藩邸には海軍本省が置かれ、旧「浴恩園」の築山には「海軍卿旗」が掲揚されました。以後、人々はこの旗を見てこの築山を「旗山(はたやま)」と呼ぶようになったと言われており、この地が日本の海軍発祥の地として歴史に刻まれることになりました。「旗山」の名が刻まれた大きな石碑は現在、築地市場内の「水神社」手前左側に建立されており、誰でも見ることができます。
 
 築地に海軍施設があったことを示す痕跡は他にもあります。例えば、新大橋通りと交差する場外市場の「波除通り」。角には「市場橋」の信号があり、現在は場外市場の店舗が軒を連ねる賑やかな通りですが、延長すると銀座の「みゆき通り(行幸通り)」にまっすぐ繋がっています。当時、明治天皇御一行が築地で海軍関連の式典が行われる際、皇居から続いたこの道をまっすぐ行幸された、ということで付いた名前だそうです(※)。

 その後、築地の地に魚河岸が移転してきたのは1923年(大正12年)になってからのことです。その年の9月に起きた関東大震災により、活況だった日本橋の魚河岸がすべて焼失。同年12月、東京市が海軍省から築地の用地の一部を賃借し、市民の食生活を支えるための魚市場が再開され現在に至っています。

(※)「みゆき通り」の名は江戸時代に歴代の将軍が江戸城から浜御殿(現在の浜離宮恩賜庭園)へ向かう際、通った道として名付けられた、との別説もあります。

【取材・文責】板橋律子

     
 
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